カテゴリー「小説-闇買い」の5件の記事

闇買い5

最初に彼に見えたのは 雪虫ほどの天使だった。

気がつかなければ単にウンカかコバエくらいにしか思わなかったであろう その小さな小さな存在を

彼はすぐに天使と認めた。それも全身真っ黯の天使を。


黯の天使の声は彼以外には聞こえなかったが、彼にとってはどんな美声よりもはっきりと どんなオペラ歌手の歌よりも大きく伝わった。

黯の天使は彼に静かに しかし心の奥底にある鐘を鳴り響かすようにこう言ったのだ。


「無理に生きなくてもいい。

 生がスタートで 死が終わりであるのなら、そして その終わりを避けることは出来ないのだから いつ終わりにしてもいいのだ。

 しかし、死ぬには その時間と 状況と そして能力がいるのだよ。それが3つ揃って本当に死はやってくる。

 それでも そこに行き着くまでに疲れてしまったのなら、生きてもいない そして死んでもいない

 狭間に身も心も沈みこませてしまえばいいのさ。」


「どうやって・・・・」

彼はすがるように、先生に訊ねる子供のようにつぶやいた。


「私が見えるのだろう? ならば君はもう狭間にいるのだ。少なくとも君の体は知らず狭間の海を泳いでいる。

 心だけがそれを認識していないのさ。 あぁ そんな不安そうな泣きそうな顔をするんじゃない。体が泳いでいても

 心が溺れているのでは狭間にいる意味がないではないか。まったく心というものは厄介だ。

 そうだな。溺れる者に浮き輪や木っ端切れのようにつかまるものが必要なように 君の心にもつかめる【確かなもの】

 がいるのだろう。それならば 君、左手を差し出してみたまえ。」


黒の天使に言われたとおり 彼は天使に向かってそっと左手を差し出した。その瞬間、彼の左手の甲に

するどい錐が突き刺さった。

彼の脳に電気が走ったような痛みが届く。しかし 彼は声を出せなかった。

「あぁ、痛いだろうとも。その錐は君の体に刺したものではない。君の心に指したのだ。君の体には傷一つ

 ついちゃあいない。でも【確かなもの】、それは痛みであり つまりは君が必要としている【罰】だろう?」

激痛に声を出せず 脂汗をかいたまま それでも満足そうに彼は天使に向かって頷いた。


ふ・・・と錐が左手から消失し、同時に痛みも消える。

彼はまたなんともいえないような不安そうな顔つきになる。

天使は続けた。

「さあ、狭間の海に泳ぐ者よ。3つの条件を揃えぬ者よ。もしも今後も【罰】が欲しいというのなら
 
 いつでも私を探すといい。探せば必ず私は見つかるだろう。」


それが、彼と黯の天使との付き合いの始まりだった。

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闇買い4

覚えている・・・・

自分が昔 笑ったことがあることを

でも どうやって笑っていたのかは思い出すことはなかった。


強く心に残っているのは 罪悪感と自分に対する嫌悪感という余韻だった。



覚えている・・・・

自分が昔 泣いたことがあることを

やはり どうやって泣いたのかを思い出すことはなかった。


心に焼き付けられたのは 自己憐憫と やはり自分に対する嫌悪感だった。



だから彼は泣いた自分を 笑った自分を 哀しむ自分も まして喜ぶ自分を 許すことができなかった。

今 自分が生きていられるのは 全て自分以外からの力によるもので そういう意味では彼自身、自分のことをこの世界に巣食う寄生虫であると思っていた。

何を言われても、どんなふうに扱われても それは当然であり 自ら何かを求めることはタブーだった。




彼に〔価値〕など 少なくとも彼自身は見出すことは出来なかった。

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闇買い3

それでも彼は生きたかった。

何の目標がなくても。それがただ継続だけの〔生〕だとしても。

笑わなくても、泣かなくても、喜びが無くても、悲しみが無くても・・・・


彼はシャーペンを握り締め 自分の太ももに思い切り突き立てた。

少し滲む血と痛み、それはまだ彼が生きていることの証拠であった。

2回、3回とその行為を繰り返し 彼はやっと安堵の溜息を吐いた。


彼の中で 彼以外の悪者はいなかった。

全てのことは自分自身に起因し、彼の人生が意味の無いものであるのは まさに自業自得である。

彼はそう思っていた。

つまり 彼は自分自身以外のものを認めていなかった。

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闇買い2

彼は呪文のように唱える。

『僕は麻痺している。僕は麻痺している。
 笑うことに。
 泣くことに。
 喜ぶことに。
 哀しむことに。
 
 毎日に。生活に。
 全てのものは僕に取り入れられると色を失ってしまう。

 僕は麻痺している。僕は麻痺している。
 生きることに。                          』


彼が感じることができるのは〔苦しい〕という感情だけだった。
それこそが彼の心のアンテナを麻痺させているものであるということを 彼自身よく分かっていた。
しかし「感じる」ということは感覚的であったが、それ故に 存在する感情を否定することは難しく 彼を捕らえて離さなかったのだ。

〔苦しみ〕を感じることは、彼にとって〔生きている〕ことであり そのことに辟易しながらも それを感じなくなることを彼は恐れた。

『僕は麻痺している。僕は麻痺している。・・・・』

その呪文は 口に出して言わない分 どんな時でも何度でも彼の頭の中に表れ、そして彼の心の中に染み込んでいった。


『・・・・。僕に生きる価値はない。僕に生きる価値はない。

 生きるためには僕は・・・・・。                       』

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闇買い

「蔀、お前・・・それ・・・・。」

「蔀・・さん? あなた 一体・・・。」


彼がオフィスに入って来たとき そのドアの音に振り向いた同僚達は何かを言おうとして そのまま絶句した。

ドア付近から発せられた朝の異変は、音も無く その部屋全体に広がっていく。
少なくともそれは初秋の爽やかな朝の空気にそぐうものでは決してなかった。寧ろ 何年も掃除していない
部屋の埃が急にオフィス中に舞い上がったような息苦しい空気とでもいうのが相応しかった。

「おはよう。」

彼はいつものように誰に向けるわけでもなく そう言うと自分の机に向かい鞄をその下に突っ込んだ。
そして引き出しからノートパソコンを取り出し、立ち上げる。それも彼の毎朝の所作であり、何もおかしなところなど
なかった。ただ、彼の首についているものを除いては。

その異様な有様を多くの同僚たちはただ遠巻きに見るだけであったが、やはり気になるのであろう。少なくとも 落ち着いて仕事を始めるものは誰一人していなかった。
その空気を察知したのか、いや 空気を察知などしなくても そのフロアの責任者としては黙っておられないだろう課長が彼の机に足早に近づいてきた。

「蔀。お前、その格好は一体何だ! なんかのコスプレか?会社をなんだと思ってるんだ!」

課長の声は決してヒステリックなものではなく むしろ怒気を含んだ低い声だったが、語尾は少し震えていた。それは決して怒りだけのものではないことを その声を聞いた部下たちは感じていた。そして その感情は当然のものだと納得していた。

彼はゆっくりと課長のほうに椅子ごと体を向け、そして立ち上がった。

「何がです?」

抑揚のない声であった。

「何がって・・・その首につけている というか刺したように見せてる鎌の玩具だよ。一体なんのつもりで・・・」

「だから何のことを言っているんですか。首に鎌・・・ですか?そんなものをつけているわけがないじゃないですか。」

「つけてない・・・って・・・ じゃあ 一体これは何なんだ!」

イライラした様子で課長は彼の首からのびている釜の柄の部分を触ろうとした。

「・・・!」

その伸ばした手は釜の柄を握ろうとして、素通りした。これほどハッキリ見えているというのにその柄はどうしても触ることができなかった。狼狽しつつも課長は何度か握ろうとしたがやはりその手は全て空を切ることになった。

信じられないような目をして課長は自分の手を見つめ、改めてもう一度彼の首からのびている鎌の柄 そして彼の首を右から左に貫通している(ように見える)鋭い刃を見つめた。

何が起こったか理解できないような顔をしたまま課長は後ろを振り返り、彼と自分を眺めている部下達を見回した。

彼らもまた信じがたいものを見たような表情をしていた。それは間違いなく彼らの目にもそれが見えていることを表していた。

「仕事を再開してもいいですか?」

彼がまた抑揚のない声で課長に聞いた。

「・・・あ、ああ。」

まるで魂をぬかれたような声で課長が答えると、彼はまた椅子に座り直しパソコンに向かった。
何かを考えなくてはいけないと思いつつ、何も思いつくことが出来ないまま課長は自分の席に戻っていく。落ち着かない部下たちに一言だけ声をかけて。

「さぁ、皆んなも仕事を始めなさい。」


「これは罰なんです。」

パソコンに向かったまま 誰も聞こえないような小さな声で彼は呟いた。

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